『茶色い小鳥』に関する一考察

リアルタイムで見ている時から「茶色い小鳥の絵本読みてええええええ」と騒いでいただけに、円盤の特典についてくるとは驚きで結構楽しみにもしておりました。

が、いざ読んでみるとどういう話かいまいちよくわからず、腑に落ちないもやもや感が。とりあえずしばらく寝かせておこうと放置してたのですが、最近ツイッターで「茶色い小鳥ようわからん」といった意見を見るようになり、私だけじゃなかったんやと安心したのできちんと考えてみることにしました。野木先生が監修に入ってるわけだし、ただわけわかめなシロモノではないだろうと。

あくまで、アンナチュラルというドラマにおける『茶色い小鳥』の持つ意味、に関する一個人の一考察ですので、そのへんのご理解よろしくお願いします~

 

まずどういう話なのかという部分から理解することに(まずそこがふわふわだった)

あと「茶色い小鳥」が長いので勝手にチャコと呼びます。

 

大きな木で暮らす鳥たち。宝石のような鳥たちは二羽ひと組で描かれているのに対し、茶色い小鳥は一羽だけ。他の鳥たちはみな番(つがい)なのではないかと解釈します。

虫を食べにいこうと誘えば木の実しか食べないと断られ、遊んでくれない理由を問えば自分たちと羽の色が違うからだと返されるチャコ。要するに「わたしとあなたは違うから相容れません」と拒まれたわけです。人間くさい。

そうしてチャコはともだち探しの旅に出ます。

ここで重要なのは、チャコにとっての「ともだち」は「自分と同じ茶色い小鳥」であるという点。のちのセリフに「ぼくとおんなじ、茶色い小鳥はどこかしら」とあり、探してもともだちは見つかりませんと続くので、チャコの言う「ともだち」は一般的な意味での友人ではありません。ここを間違えたが故に私のファースト『茶色い小鳥』読解はバグった。

旅の途中で出会った、魚獲りの技術が低く食べることがままならないイタチや、寝床が作れず眠ることがままならないヘビ。彼らに自分の羽をあげて手助けしたチャコは、「ともだちになろう」という申し出を断ります。彼らの言う「ともだち」は友人という意味だけど、チャコにとっては自分の同種のこと。だから「きみとはともだちになれないよ」ではなく「イタチ/ヘビとはともだちになれないよ」と返しています。イタチやヘビからすると、チャコが大きな木で他の鳥から受けた対応と同じものを返されているわけで、読んでいる側としてはあまり良い気分ではない、笑

色々な場所で誰かに出会うたび自分の羽をあげるが、いくら探せど「ともだち」には巡り会えない。きっと羽をあげた動物から「ともだちになろう(今度はぼくが助けるよ)」と言われても、全て断ってきたのではないかと思います。自分が与えるだけで相手からは受け取ろうとしない。相手の足りないものを埋めてあげるだけで、自分の足りないものを埋めてもらおうとはしなかった。ただひたすら、自分と同じ存在を求めて飛び続けた。

そして死んでしまったチャコは、目が覚めると綺麗な花になっていた。ぽかぽかするからだは冷たい地面との対比で、冬が終わり春が来たことの証。小鳥は大きな花になり、最初にいた木よりも、大きな大きな木の上にいた(死後の世界か生まれ変わったのかはわからない)

大きな花のまわりにはイタチやヘビだけでなく宝石のような鳥たちもやってくる。花こそ違う種やんけ!拒否らんのかい!ってなりかけたけど、人間肌の色が違うとかで拒絶しても、全身毛まみれで四足歩行だからって猫を拒絶したりはしないじゃないですか。たぶん宝石のような鳥たちにとっての花ってそういう存在なんじゃないかな、と思うことにしました(雑)

そして全国津々浦々探しまわっても結局見つけられなかった「ともだち」もやってくる。卵がある、ということは茶色い小鳥は番なわけですよね(絵でも二羽いる)。もうすぐヒナが孵る=新しい生命の誕生は、死んだチャコとの対比でもあり。茶色い小鳥は一羽ぼっちではなくなった。最後のページ、ヘビのみ一匹だけど他の動物たちは二匹ずついるので、やはりみな番として描かれているような気がします。

あったかくていい匂いのする場所で綺麗な花になり、宝石のような鳥たちや多くの動物に囲まれ、探し続けた「ともだち」を見つけ、新しい生命が生まれるのを見守る。優しくて幸せそうな光景。だけど、これはチャコが死んでしまった後のこと。生きているうちには幸せになれなかった、と考えると随分悲しい話です。

普通に絵本としてこめられたメッセージを解読するなら、「死んだ後に得る幸せもある」という感じ…?「この世に美しい死はなく、死んでしまえば終わりだ」と考えているミコトとは対照的なスタンスなのが面白い。

 

さて、次に糀谷夕希子という人物について考えてみます。

 

アンナチュラル公式HP・橋本真実さん(夕希子役)のインタビューでは、夕希子さんは明るく飾らない性格で、夢をかなえるために一生懸命に働いて、自分に正直で自立した女性だと語られています。本編での彼女を見ても、少ない登場シーンではあるけれど天真爛漫で周りから愛されるような人物として描かれているのがわかる。それだけに、『茶色い小鳥』という寂しい話が生まれたことに違和感を抱くのも無理はない。

ので多少強引ですが裏側を想像して補完を試みます。

アメリカのハイスクールを卒業後、日本に移り住んで美大を出たとすると22か23歳で、中堂さんと出会った頃は31歳。彼女曰く、美大を出たってちっとも食べられない。スナックと定食屋を掛け持ちして働いて(※宍戸情報)、食事は賄いで。自立した人だと言うから、恐らく親の援助は受けずに奨学金を借りて美大に通い、今でもその返済を続けているということになるのでしょう。何年も売れない、芽の出ない日々を過ごしながら、夢を諦めず(諦められず?)絵を描いている。

ミコトや東海林と同じように、独身で子どももおらず「私は何処へ帰るんだろう」という思いに駆られたこともあったかもしれない。故郷のアメリカから遠く離れた日本という国で。夢も潰え独りで死ぬかもしれないという人生に対する不安を、夕希子さんも持っていたのではないかと思います。

「寂しい人生でも、最後くらい花になったっていいじゃない?」

「あったかくて、いい匂いのする場所で、綺麗な花になれたら幸せだと思わない?」

彼女の台詞や『茶色い小鳥』は、そんな翳りの影響を受けているのではないでしょうか。

 

インタビューでは中堂さんについて「夕希子とは全然違うタイプで、この人(中堂)の前だと自然体でいられる、きっとお互いにないものを補っていたのだろう」と語られている。彼と出会うまでの夕希子さんの交友関係がわからないので完全なる想像ですが、「この人の前だと~」ということは、これまでに出会った人とは互いの欠けた部分を埋め合うような関係にはなれなかったのかなと。夕希子さんは中堂さんが今までに出会ったことのないタイプ(オーディオコメンタリーより)であるように、夕希子さんも初めて彼のようなひとに出会った。

夕希子さんにとって、理屈じゃないことに「どういう理屈だ」と尋ね、死んだ後の幸せについて語ると「生きてるうちに、幸せになれないもんか」と返してくる中堂さんは、自分とは同じじゃないけど自分の足りないものを埋めてくれる存在だった。一緒に生きていきたいと思える相手だった。

 

ここまで考えて私が導き出した結論は、

 

与えるだけで相手から与えてもらおうとせず、自分と同じではないからと関係を築くことなく去ってしまい、伴侶を得られぬまま死を迎えた茶色い小鳥。それは中堂さんに出会わなかった夕希子さんの姿、ifの存在なのではないか。

 

ということです。

私のアカウントをフォローしている方には耳タコだと思いますが、アンナチュラルには、「××していたらAも彼女のようになっていた」というような、Aが進まなかった方の分岐先にいる人物(ifの存在)がよく登場します。5話の鈴木さんは中堂さんのif、高瀬はミコトのif。『茶色い小鳥』のチャコは、夕希子さんのifだったのだというのが私の解釈です。

もちろん、彼女が意識的にそう描いたわけではないかもしれません。ただ創作という行為において、自身の経験や思想というものは多かれ少なかれ作品に反映されるものだし、次作になる予定だった『ピンクのカバ』のあらすじを聞く限り、彼女は自身を作品に投影する傾向が強いのではないかという風に感じたので、このような考察としてまとめました。繰り返しになりますが、アンナチュラルというドラマにおける『茶色い小鳥』の持つ意味、という点での考察として受け止めていただけると幸いです。そもそも考察という行為自体ね…作者が意図して描いたわけではない(かもしれない)ものに勝手に意味を見出すようなものだしね……

『茶色い小鳥』の構想がいつから練られていたのかわからないけど、形になったのが中堂さんとお付き合いしている時だと考えると、彼との出会いが何らかの影響を与えたのは間違いないんじゃないかと思っております。

 

いい絵本か俺にはよくわからんとはっきり言ってしまう中堂さんを、それでいいのと夕希子さんは笑って許す気がする。そういうところが中堂系だもんね。

 

───あったかくて、いい匂いのする場所で、綺麗な花になれたら幸せだと思わない?

そう問いかけた彼女は、スクラップ置き場で雨に濡らされ、冷たく硬い解剖台の上で朽ちた身体が放つ臭いに包まれながら、切り開かれただの肉の塊と化す。

それを行なったのが愛する恋人だった、ということは、せめてもの救いになるのでしょうか。死んだ人は、答えてはくれない。

 

 

 

高瀬マジ(憤怒)

 

 

 

とまあこんな感じです。

「茶色い小鳥は中堂さんだ」という意見もちらほら見かけて、私自身も途中から中堂さんルートに分岐することもできるよなあと思いつつ、夕希子さんルートで考えてみました。たぶん多義的に解釈できる話だと思うので、是非いろんな方の解釈を聴いてみたいです。

 

最後に、

公式様、特典につけてくれてありがとうございましたーーーー!!!!