音楽と共に生きる、ということ

「僕たちは、今日死ぬかもしれません」

この台詞から続く常葉朝陽の言葉が好きだ。これが人生最後のステージになるかもしれない、だから悔いのない演奏をしよう。何度聴いても心が震える。そして私は、今日この帰り道で死んでも構わない、と思えるほど最高の本番を経験することができた。それはとても稀有なことで、今回はそのことについてつらつらと書いていこうと思うのだが、先に断っておこう。かなり、長い。

私の人生における音楽のレイヤーはざっくり分けて6つある。そのうちの5層目が高校のオケ部時代で、これから登場する4人の友人たちはたぶん、生涯の友と呼ぶに相応しい人たちだ。いろいろ語るにあたって軽く紹介しておく。男子①当時のコンマス(ここではOと呼ぶ)、男子②コントラバスの同期(ここではSと呼ぶ)、残りの2人は女子でここではHとDと呼ぶ。私を含め部の運営を担っていた幹部チームで、一緒に血反吐を吐いてきた戦友である。このチームには名前があり、ここでは仮名として闇鍋と呼称しよう。
現役時代めちゃくちゃ走り回った我々は、大学進学後全員が別々のオケに入り楽器を続けた。卒業後も闇鍋が揃って楽器をやっているのは歴代でも異例のことらしい。互いの演奏会には何度も足を運んだ。元コンマスのOは私が所属するオケ自体のファンになってしまい、仮に私が退団したとしても演奏会には絶対行くなどと愉快なことを宣っている。そいつはヴァイオリンのセンスと幼少期からの長年の経験を存分に発揮するように、大学のオケで弾くのみならず様々なオケのエキストラとしてあちこち飛び回っており、ついに自分が中心となってオケを立ち上げてしまった。演奏会のたびに「喬林さんうちのオケ来ない?」と誘われるのだが、私はOがうちのオケに欲しいので永遠に平行線である。
演奏会以外にも闇鍋会と称してちょくちょく顔を見せ合う仲だった我々は、全員が成人してからはオトナらしく飲みがメインになった。初飲みは確か渋谷の塚田農場だった。


こうして横の繋がりを保ちながら母校のオケ部との縁も切れなかったのは、夏休みに行われる合宿に参加していたのが大きいように思う。某お米の美味しい県で数日泊まりがけで行われる合宿には、毎年プロの音楽家と卒業後も楽器を続けている酔狂なOBが任意で指導員として参加する。お察しの通り、我々もその酔狂の一員(なお常連)だった。後輩指導がもちろん第一の目的、でも馴染みの場所に友人たちと訪れて寝食を共にするというのはもはや旅行みたいなもので、それが楽しくて恒例のイベントと化していたところはかなりあった。
初めて参加した年は現役の乗るバスに便乗して向かう予定だったのだが、Hは電車の運転見合わせに巻き込まれて出発時刻に間に合わず、自腹を切って新幹線で追いかけてきた。彼女は学生の頃から大事な時に限ってそういうことに巻き込まれるのである。つくづく災難な女だ。
大学生ともなると5人が揃うこともなかなか難しく、全員集合できたのはたった1回だけだった。その時はSが車を出してくれて、カーステレオでクラシックをガンガンに流しながら高速を走った。そこそこガチで音楽をやっている連中が集うと、「○○(指揮者)の××(曲名)がヤバい」的なオヌヌメ音源の紹介合戦になったり、「ドヴォルザークはちょっとダサいところがあるのが逆に良い」とか「この1楽章の終わり方はクソ」とか至極勝手な講評が始まったり、音源に合わせて歌いまくるカラオケ大会(語源を考えるとカラオケなのかなんなのかわからないが……)に発展したりする。これがまあ頭おかしくなるくらい楽しい。私はこの時、人生で初めてドライブとは楽しいものなのだと知った。幼い頃は乗り物酔いが酷く、車と名のつくものに乗ると必ずゲーゲーしていたからだ。家族で出かける際のドライブは常に地獄だった(私と妹があまりに吐き散らすのでのちに両親は車を手放すことを選んだ)。彼らとの思い出は私の嫌な記憶を上書きするには十分すぎるくらい最高で、こんな夏がずっと続くと思っていた。だが、あっけなくそれは途絶えた。





コロナの流行を受けて、恒例の合宿は中止になった。というより、そもそも部自体が活動停止を余儀なくされるようなそんな状態だったらしい。うちの部では3年生の4月の定期演奏会で引退となるのだが、当然それも開催できず、その代の子たちは1年近く練習してきた曲を完成させられないまま卒業することになった。結果的に最後となってしまった合宿で私たちが面倒をみた、当時部を牽引していた代の子たちだった。
我々闇鍋は流行りのリモート飲み会をやってみたりと細々交流は続けていたが、オケ部との関わりはめっきりなくなってしまった。この3年の間に誰かが転勤したり転職したり結婚したりして、自分たちの人生も少しずつ模様の違いが大きくなっていった。いま楽器を続けているのは私とOとSだけだ。Hは地方勤務になって楽器をやる環境がないから、と言っていたので、こちらに戻ってきたらまた始めるのかもしれない。私はDが完全に楽器から離れてしまったことが残念だった。演奏会には来てくれるから音楽から離れたわけではないが、もう彼女の音が聴けないのかと思ったら少し寂しい。でも、音楽とどう生きるかはあなた次第、という朝陽の言葉を思い出す。彼女にもう未練がないのであれば、それは受け入れるべきことなのだろうと思うようにしている。

そして今年の3月末。
闇鍋LINEグループにOからメッセージが送られてきた。先輩から連絡を受けて、今度の定演に乗れるコントラバスのエキストラを探している、と。彼の所属しているオケの話ではない。我らが母校のオケ部の話だった。慌ててスケジュールを確認した。1ヶ月後ならまだ空けられる。そう返事をすると、Sも同じく日程的には参加できるという。しかも募集枠は2人。これは乗る以外の選択肢などない。私もSも確定の返事を仲介役のOにした。俄かに浮き足立った。今日にでも詳細の連絡が来るだろうと言う彼に「Oは乗らないの?w」と冗談めかして訊くと、なんと2ndで乗るという。先に言えよ馬鹿と笑いが止まらなくなった。抜け駆けしてんじゃねえ。


かくして、同期3人の共演が決まった。高校を卒業してから同じ舞台に立つのはこれが初めてのことだった。引退した時の定演から9年が経っていた。プログラムのメイン曲は、コロナがなければあの子たちが演奏していたはずの幻の交響曲だった。

乗ると決めたはいいものの、本番前の練習に参加できたのは1日だけだった。月〜金労働社会人なので平日夕方の部活に顔を出すのは難しく、休日ならどうにかという感じだった。
そして、高校生の朝クソ早ぇ!と最後の合宿ぶりに悲鳴を上げた。奴らの朝食は7時いただきますである。私が所属しているオケもコンパクトな合宿は行っているが、朝食はもっと遅い時間だし、そもそも就寝時間という概念がなく夜通し練習するイカれた集団なので、朝ごはんを食べようとする団員は全体の2割が良いところか。
話が逸れたが、悲鳴を上げたのはその日の練習が朝8時半振り下ろしだったからだ。夜の間違いか?と思ったがバッチリ朝だった。日曜の8時半なんて普段なら布団の中にいる。仕事と同じ時間に家を出てショボショボしていたら、のっそり現れたSが同じように「朝が早すぎる……!」と呻いた。高校生も凄いが、それに合わせて活動している顧問の先生方が本当に素晴らしい。適切な言葉ではないが、えらい。えらすぎる。
どうせなら現役当時のプルトがいいと思って表を所望すると、Sは快諾した。どうやら同じ考えだったらしい。入学してから卒業するまでずっと、私たちは同じプルトで表と裏で、1番の相棒だった。それ以上の関係になりたいと願って叶わなかった相手でもあるが、それはもう遠い昔の話だ。高校時代に最も自分の音楽のそばにいた人間の隣でまた楽器を弾ける。それはこの上なく幸せなことで、まだ本番も終わっていないのに既に満ち足りた気持ちでいっぱいになってしまった。気が早い。
超絶久しぶりに会った顧問の先生は相変わらず魔女みたいに同じビジュアルで本当に年を重ねているのか疑いそうになる。近況報告などを交わし、では次は本番で、と挨拶。何せこの時点で本番1週間前を切っているのである。こんなに練習に参加できない本番は初めてだ。でも、そこまで不安はなかった。むしろ楽しむ気満々だった。緊張しているエキストラなど使い物にならないし、アウェイどころかここはホーム。現役を制圧してしまわない匙加減だけ注意してのびのびやろう、と決めて本番を迎えることにした。


本番前夜という凄いタイミングで割り込んできた送別会は、最初「明日本番なので今日はほどほどに……」と宣言していたのだが、結局ワインだけでも3杯頼んでしまって自制心よわ……と呆れた。会社の金なので仕方がないと開き直る。翌日に持ち越すことがほとんどないタイプなので、朝はしっかり起きてちゃんと会場入りした。楽屋に辿り着く方法がわからずウロウロ彷徨ったのは余談。
Oとは練習に参加できる日も被らず、当日ようやくという感じだった。ゲネプロ中、ここはというポイントでOに視線をやると、彼も私を見てニヤッと笑い返してくる。そういうやり取りが1曲の中で何回あったかわからない。Sともニヤニヤの応酬はあるが、こっちは大抵どちらかがミスった時である。
アンコール曲の途中で、Oが1番後ろのプルトから「ここは!絶対!走らないで!」という風にテンポを維持しようとしているが若さ故の突っ走りを1人では止められず苦労しているのがありありとわかる弾き方をしているのを、休符で無職の私とSはまたもニヤつきながら見ており、そこを乗り越えた後にOがこちらを見て笑うというくだりがあった。これは同じレベルで音が聴こえている者同士でしか共有できない彼の孤軍奮闘だった。恐らく、現役や他にも数名乗っているOBの若い層の子たちは、私たちが何にウケているのか見ていても理解できないだろう。もしかしたら現役にはなんだあいつらと思われていたかもしれないが、10年選手のOBとしては流石に格の違い的なものを見せつけさせていただかないと存在価値が危ういのである。ゲネプロの後、当該箇所について言及すると、案の定Oは「俺は無力」と言ったので笑った。がんばれ元コンマス
本番前に現役のバスの子たちと写真を撮った。みんな礼儀正しくていい子でとってもかわいかった。卒業した今でも、うちの高校はいい人たちが多いなあと感じる。民度が終わってる公立中学の出身だったので、高校は本当に楽園のような場所だった。ふざけ倒しても一定ラインの常識は超えない育ちの良さ、周りに気を配り声を掛け合う優しさ。女子をさん付けで呼んで丁寧な言葉で話しかけられる男子で溢れていることに心の底から感動したものだ。


我々の出番はメインの交響曲以降だったので、前・中プロは客席から聴かせてもらった。入部してくる子のレベルが上がっているのか先生の指導力の向上かもしくは両方なのか、自分らが現役だった頃より数段上手くてびっくりしてしまう。弦のほとんどは高校から楽器を始めるのに1話の玉響より上手い。エキストラとして召喚されるということは演奏が危ういのかと思っていたがそうではなく、音の厚み出し要員ということだったようだ。厄災に見舞われながらもオケとしてめきめき成長している様にはただただ感心するしかなかった。


本番は大抵練習よりテンポが上がるものだが、例に漏れずだいぶ前のめりになって面白かった。Sが譜めくりをした後ちょっとだけ浮いた左側のページを私がそっと弓先で押さえる連携プレーが懐かしすぎて爆発しそうだった。前回の練習からゲネプロまでの間に何箇所もボウイングが変更になっていて、拾えるところはゲネ中に書き換えたが漏れたり間違えたりで、現役とOB、さらにはOB内でも弓が逆になるという事故が多発していたのは許してほしい。アンコールでヴァイオリンと管が完全に乖離した時は狭間でどうしようかと思ったが、無理矢理帳尻を合わせてどうにかした。リハで苦労していたOは本番でも苦労していた。
本番前の掛け声、先生の少し独特な拍の出し方、アンコールまでの流れ。当時と変わらないものがたくさんあって、私の知っているオケの姿をしていたことにほっとした。当然、変化も多々ある。けれど、あの時と今は確かに地続きのものなのだと強く思えた。先生方、そして私たちが卒業した後にここで音楽をやることを選んでくれた後輩たち。私の愛したこのオケを、今日まで繋いでくれてありがとう。


終演後、帰り支度を整えて楽屋を後にすると、ロビーはたくさんの人で溢れていた。知った顔がいくつもあった。
現役の時、同じ舞台で演奏していた友人たちが来てくれていた。宣伝のために久々に同期LINEを動かしたら反応をくれたのだ。しかも卒業以来1度も会っていない友人たちだった。すっかり綺麗なお姉さんになってる……!という感想は、もしかしたら向こうもこちらに思っていたかもしれない。2人が並んでいるのがすごい懐かしかった、と口々に私とSに言った。全員が同じ気持ちを抱いていた。
ひとつ下のバスの後輩が同期と一緒に来てくれていた。彼女は私が大学生の時から良く演奏会に来てくれている、喬林ガチオタみたいな娘だ。私とSの間に挟まれて写真を撮るとまさに"狂喜乱舞"という感じで、まるで自分が芸能人にでもなったかのような錯覚を覚える。新歓演奏会で私の弾き姿に惚れて「ここに入ってコントラバスを弾きたい」と心を決めた、という話を会うたびにしてくれるのだが、やはり今日もしてくれた。私が当時の髪型に近かったから余計に記憶を刺激したらしい。かわいい。
合宿常連組の先輩が来てくれていた。エキストラ探しネットワークの中心にいた人だ。今日はお一人ですか、と訊くと「一人で来たけど死ぬほど知り合いがいる」と返され大ウケしてしまった。その通りである。その人以外にも自分と干支3周り以上違う大御所OBたちの姿などもあり、ここは合宿所か?というような様相だった。
今のオケの後輩が来てくれていた。その子は、実は高校の後輩でもある。といっても何代も離れているし、そのことを知ったのは彼女が入団してきた時が初めてだった。合宿で顔くらいは見てたはずだと盛り上がったが、よく年を数えてみたら最後の合宿の時に2年生で──今日のプログラムは演奏したくてたまらなかったはずだ。めっちゃよかったですーとぽやぽやした喋り方で言ってくれたが、心中はいかばかりか。当時管楽器をやっていた彼女に、私は今コントラバスを教えている。
そうして見知った顔ぶれと話していると、チラチラとこちらの様子を窺っている男の子がいることに気づいた。その面立ちになんとなく覚えがあり、もしかして合宿で……と声をかけると「覚えててくださったんですか!」とえらく感動された。確かに教えた、君のことは。しかも先ほどの今オケ&高校の後輩ちゃんと同期で、今オケの定演の方も来てくれていたらしい。一方的に見られていたとは知らなんだ。バスは続けているのか訊くと、オケではないが別のジャンルに移って続けているという。嬉しかった。自分がかけた言葉や聴かせた音が少しでも彼の中で生きていてくれたら、それはとても幸せなことだ。

ホールから離脱してSとOと3人で焼き鳥屋に雪崩れ込み、しこたま飲んだ。本番前、ほぼ自分の楽屋におらず奴ら2人の楽屋に入り浸ってくっちゃべっていたのに、話は全く尽きない。8割が今日の感想を含む音楽の話、残り2割が自分たちのこれからの話という感じだ。私も2人も闇鍋の誰かの結婚式に呼ばれて残りのメンバーで祝福の演奏をするというやつをめちゃくちゃやりたがっているのだが、式は挙げない方針の既婚者Sと挙式に消極的な独身O&私(相手はいる)と積極的な独身H&D(相手はいない)という組み合わせのため、現状どうなるかわからない夢となっている。演奏させてくれ……
とは言いつつ、式を挙げるか否かも、結婚するか否かも私が口を出すことではないこともわかっている。ただ、なんと言うのだろう。みんなには幸せであってほしい。やってきたことが報われてほしい。尊敬されて、大事に扱われてほしい。特に、今ここにいないHとDの2人に対して強くそう思った。Hは気が強いように見えて実は繊細で、仲間内では一番愚痴っぽいが本当にそれをぶつけたい相手には言うことができないで、自分で全部ひっ被ってどうにかしようとする人だ。Dは優秀な上に人の2、3倍もストイックに努力を重ねて、それでも満足せずにむしろまだ足りないと自分を追い込むような人だ。彼女たちは、報われるべき人だ。いつ会ってもハードモードな生活を送っている2人には、そのがんばりに見合うだけの何かがちゃんと用意されてほしいのである。と思っていたら、Oが全く同じことを熱っぽく語り出して「わかる」を繰り返すbotになってしまった。我々は皆、闇鍋メンバーに関しては強火のモンペだった。


少し肌寒い夜にブルブル震えながら締めのアイスを食べ、次の演奏会の宣伝をして解散した。家には死ぬことなく辿り着いた。

こうしてこの10年をなぞってみると、高校の関係者だけでも自分が音楽を通していろんな人と繋がっていることがよくわかる。私は楽器を弾くのが好きというより、オーケストラの中でアンサンブルをするのが好きだ。生まれも育ちも何もかも違う人たちが、音楽を介してひとつの運命共同体になるオーケストラが好きだ。音楽がないと生きていけないというより、音楽があったから生きてこられた。そんな風に捉えている。この先も、音楽で結びついた人たちと生きていきたい。今日死ぬかもしれないと思いながら楽器を弾いて、今日死んでもいいと思える演奏をしたい。明日も明後日も、音楽と共に在りたい。私は、音楽が好きだ。

なんと、今年はついに合宿が復活するとのこと。お邪魔させていただきます。Sの車で!