自分の言葉がグッズ化されたい

自分に面白みがないことについて、少なくとも1日1回はがっかりしている。例えば旧Twitterで何か呟いた後だったり、上司から話を振られた時だったり、半分初めましての人との飲みの最中だったり、楽器を弾いている瞬間だったりとタイミングは様々だが、とにかく味が薄い気がしてならない。料理が下手だし、そもそも出汁を取るための具材が全然手元にない。そういう感覚だ。人生に高低差や緩急がないとこうなるんだろうか、と最近よく考える。

『LIGHTHOUSE』は源さんと若林さんが暗黒時代を過ごしたという阿佐ヶ谷・高円寺を舞台に始まるが、私の人生には暗黒と呼ぶほどつらい時期というものが存在しない。挫折も知らない。留年も浪人も休学も転職も休職も経験がない。履歴書は早く書き終わって楽かもしれないが、Wikipediaのページは全く読み応えがないと思う。もし「この人の人生をドラマにしてください」と私を題材に指定したら、紆余曲折とかけ離れた直線ぶりに脚本家はキレるかもしれない。朝ドラや大河の主人公に選ばれる人って本当に凄い。

ある視点で見れば「自慢か?喧嘩売ってんのか?」と言われそうなことを書いている自覚はある。自分が恵まれた環境で生きてきたことには気づいている。だから、つまらない人生で嫌だと嘆いているわけでは全くない。
ここで何をこぼしたいのかと言うと、ぬるま湯に浸っている自分からは絶対に出力され得ない類の言葉があって、LIGHTHOUSEの二人が放つ言葉がまさにそれだ、という事実に勝手に落ち込んでいるということである。私の言葉はあんな風に鋭い角度で人に刺さらないし、端々に滲んでしまうエスプリもユーモアもない。まるで比べものにならない。比べることすら烏滸がましいかもしれないが。
オケの練習の時も、トレーナーの先生によく言われる。「人生が浅い音がする」と。大変ごもっともで、ぐうの音も出ない。助けて。

苦労すれば苦悩すれば人生に深みが出るんだ!と考えるほど単細胞ではないが、生きるのに困ったことがない人間の深度は、そうでない人間の深度とは絶対に違うのも確かで。それはきっと、言葉の重みとか凄みとか、そういった部分に差異として現れる。その差異が気になってしまう。自分のぺらっぺら具合を意識してへこむと同時に、恥ずかしさを感じる。
「この文章私が書いたことにならないかな」と私も言われたい。「これ俺が弾いたことにならないかな」でもいい。そう言わしめるものを出力できたらという思いは常にある。きっといろんな人に「この曲俺が作ったことにしてほしい」と思わせているであろう源さんは只者じゃない。そういうところも好きなのだけど、とても遠く感じる。
この夏、ある分野の第一線で活躍している人・強烈なエピソードに事欠かない先輩・口から出る言葉全部がウィットに富んでる指揮者などといった中身が濃い人々と立て続けに会話する機会があって「あ~味がねえ〜〜〜」と自己嫌悪に陥っていたのだが、そのタイミングで見たLIGHTHOUSEは効いた。もがいてあがいて生きてきた人たちの言葉は違う、と思った。思わされた。

なんてことを言いながら、例えば今なら時間を戻して山あり谷ありの曲がり道を選べるけどどうする?と訊かれても、私は選ばないだろう。若林さんに馬乗りになられて「俺と同じ20代過ごせんだろうなぁ!?」と迫られたら謝りながら全力で首を振る。思い立って会社を辞めて知らない土地に行くとかできる気がしない。自分から変化を求めようという気概も持ち合わせていない。そういう卑しい人間なのだ。好きなものを食べまくって運動せずに痩せたいとか、ただ寝てるだけで金がほしいみたいな、対価を払わず美味しいところだけ手に入れたいという話をしている。酷いな……

以上、特に解決法に辿り着いたわけでもないので暗いまま終わる。ただ、この前初めて『ローマの休日』を観てしみじみ良い情緒になったので、名作と呼ばれる古い映画はいろいろ観てみようとは思っている。
ちなみに、このことをちらっと母に話してみたら「これから人生めちゃくちゃになるんじゃない?」と言われた。言い方……。でも確かにその可能性は大いにある。もし谷底に落ちたらこの文章を読み返して、何言ってんだコイツはと笑ってやるのも良いかもしれない。

星と若のユニット名を「悩める人々を照らす灯台のような存在だが自分たちの足元は暗そう」という理由で『LIGHTHOUSE』とした佐久間さんに対しても私はグギギギ…………となっている。的確すぎるだろ。