一に満たない彼らは一に満たないまま走っていく

志摩と伊吹の関係性が「共依存」という言葉で表現されたのを初めて見た時、そう捉えていいのか、と衝撃が走ったのを覚えている。とあるインタビュー(脚本賞は「MIU404」野木亜紀子氏 ラストシーンは『連続ドラマでなかったら生まれていない』<ドラマアカデミー賞・インタビュー前編> | WEBザテレビジョン)での話だ。
私はこれを読んで、MIU404は「志摩と伊吹が共依存っぽい関係に陥りながらもそこから脱却し新たな関係を築く話」でもあるのだ、と新しい視点を獲得した。ただ、それをすぐに噛み砕けたわけでは全くなく、何がどう共依存的なのか腹落ちするまでに軽く1年くらいかかっている。以下の文章は、自分で自分を納得させるべく、ずっと抱えていた宿題をどうにか提出するようなテンションで書いた、いち個人のいち解釈である。

404における「共依存っぽい関係」を別の言葉に置き換えるとすれば、「こいつと一緒に走ったら間に合うというある種の盲目的な信頼を互いに寄せ合っている状態」が一番近い気がする。身の内に無自覚の"正しさ"を宿した伊吹とそれを見つけ出した志摩。「うまく言語化できないものも拾って耳を傾けてくれるこの人がいれば自分は全力で走って誰かを助けられる」「この危なっかしいけど正しい奴を真っ直ぐ走らせてやれたらきっとたくさんの人が救われる」というそれぞれの思いが加熱した結果、万能感にも似たような「こいつと二人でならやれる」という感覚が404の間に芽生えていった。その状態のピークが9話のハムちゃん救出〜10話の北目黒病院に辿り着くまで、それが崩壊し個に立ち返るターンが最終話の頭〜バッドトリップから目覚めるあたりまで、そして新しい関係で走り出すのがそれ以降、とざっくり分けるとこんな感じだろうか。志摩と伊吹の「こいつと〜」の足並みが揃ってくるのが8話の終わり〜9話の頭なのでラスト3話は本当に怒涛の展開だと思う。

まず志摩の場合は、1話のラストをきっかけに6話・8話を加速点としつつも比較的緩やかに伊吹に傾いていったイメージ。
はじまりは恐らく「機捜っていいな。誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ?超いい仕事じゃーん」という伊吹の言葉。勤務初日でこの感想が出てくる伊吹の短時間で本質を掴むセンスには舌を巻くが、これを聴いて、こいつとなら取り戻せるかも、救えなかった人の分まで誰かの未来を救えるかもと感動したという志摩の跳躍も大概凄い。警察官としてはいただけないような暴力性を目の当たりにしながらも、こいつはやり方を間違えなければ人を救える刑事になるとこの時点で予感していた。だから桔梗に適正を訊かれて「刑事の常識から教えなくちゃならない」と言う。常識がないとこき下ろすのではなく、自分が教えるつもりにもうなっている。6年前の相棒には「調べ方が悪いんじゃないか」「今まで何を習ってきた」としか言えなかった自分への戒めと新たな相棒への期待が感じられるセリフだ。
というわけで、実は感動してましたと本編で明かされるのは9話だが、実際は2話以降ずっと志摩は伊吹に可能性を感じながら走っていることになる。3話の「俺はあいつを意外と買ってる」という宣言を聴いた時ですら相手を認めるのが結構早いなと思ったが、全然そんなレベルではなかった。「他人も自分も信用しない」の「他人」には当然伊吹も含まれていて手放しでは認めていないが、その一方でこいつとなら、という予感を抱いてもいる。1〜5話の志摩は結構シンプルで個人的にはわかりやすい。

対する伊吹の場合は、5話あたりから志摩という人間に興味を持ち始め、6話を経て8話から9話にかけて急速に傾いていったイメージ。志摩と比べると意外にスローな立ち上がりである。1話の序盤から「こいつマジでただのヤンキーですよ」と伊吹の人物評定を始める志摩と対照的に、伊吹の口から志摩って○○な奴という言葉が出てくるのは4話ラストの「お前の本性が死にたい奴だったとはな」とかその辺で。5話でガマさんが相棒は?と話を振るまで、我々も伊吹が志摩をどういう人間だと思っているのか実はよく知らない、という。しかもそこで出てきた人物評定が「頭はすげー切れるけどいちいちムカつく」。それって志摩評の中では割と浅いところに位置してるやつじゃないか?案外まだその辺にいるのか伊吹……と少しびっくりしてしまう。馴れ馴れしくパーソナルスペースを割ってくるだけで深いところまでは潜らず浅瀬をずっと泳いでるような対人距離の取り方。
もちろん伊吹にとって志摩はこれまでの同僚たちとは違うのだろうが、例えば志摩のこういうところが気に入っている、とか志摩とならこれができそうみたいなものはまだこの時点ではあまりなく(もしくは自覚できておらず)、認識の仕方が「いまいち信用はされてないけど自分の勘も判断材料に含めてくれるまあまあ上手く仕事ができている初めての相手」くらいのところで止まっているような気がする。これまでの伊吹の経歴を考えれば、伊吹をいち戦力として扱う人材と出会っただけで奇跡みたいなもので、個人のペルソナ云々ではなく単に「自分をそう扱ってくれる人」として志摩を見ている部分があってもおかしくはない。1話のブチギレゴミ箱やローリング廃車も「規則規則言う頭カタイ真面目くんかと思ったら意外とやるじゃん」というワンコの格付け修正に寄与するくらいの出来事っぽく、やたら相棒相棒連呼するのもただ手に入れたての「相棒」という言葉を使ってみたいだけ、というようにも映る。2話で繰り出した「俺たちいい相棒になれそうじゃん?」の「いい相棒」ってなんなんだろうか。伊吹の言ういい相棒の基準は、たぶん一般的なそれと比較すると馬鹿みたいに低くて、「自分の意見に耳を貸してくれた」程度のことでいい相棒判定されそうなガバガバさを想像してしまう。

そんな伊吹が「他の誰でもない"志摩"と向き合って相棒として一緒に走っていくんだ」にシフトした、そして志摩が伊吹に「落ちた」のが6話だった。
売られた喧嘩を買うような形で始まった相棒殺しの謎解き(そもそも最初に売ったのは伊吹なのだが)。順当に攻略していけば最後に行き着くのは桔梗のところで、その人はただの野次馬根性や薄っぺらい「志摩のため」みたいな言葉では絶対に過去の資料を見せたり何があったか教えたりしない、というところまで志摩はわかった上で、やれるもんならやってみろと伊吹を焚きつけたのだと思う。「相棒」を名乗って過去をつつくならそれくらいやってみろと。ある意味この相棒殺しの謎解きは、伊吹にとって志摩の「相棒」となり得るかどうかの試金石だった。そして伊吹は桔梗を納得させた。志摩に相棒を殺したのか訊いて肯定されたら怖い、と九重に言う伊吹はもうちゃんと志摩に向き合おうとしていて。過去に縛られたままの志摩を俺が救う!ではなく、純粋に自分が志摩と全力で走るのに必要で知りたいだけだと、いっこいっこがスイッチで大事にしたい諦めたくないと6年前の志摩の逆を行く伊吹を、桔梗は認めた。香坂の手紙も読んだ、という電話越しの言葉で、志摩は桔梗がそうするに足るものを伊吹が見せたのだと悟った。桔梗は伊吹が機捜隊員としてやっていけるかどうかという判断を志摩に預け、志摩は自分の過去を伊吹に晒すかどうかの判断を桔梗に預けた、と考えるとこの二人の信頼関係が物凄いがまたそれは別の話なので割愛。最後のピースは伊吹の本気を知った志摩本人から与えられるというのがまた良いバランスで、秘密の共有のようでもあり懺悔のようでもある。

そして、志摩をすくうためではなくあくまで自分のために取った伊吹の行動が、結果的に志摩を少しだけすくうことになるというまさにスイッチのような展開と、その伊吹が放った「俺の生命線は長い」という言葉。
香坂という相棒に死なれたことは志摩にとっては最大のトラウマで。この「相棒に死なれた」という言い方は先述の野木さんのインタビューから引っ張ってきているが、志摩の意識としては「自分が殺した」であることは明白。止められるスイッチを全て見て見ぬふりをした自分を志摩は責め続けた。伊吹という相棒の進退を任された時、もう二度と同じ轍は踏むまいと過去の自分を反面教師とした。くだらない雑談に応じるのも世界一意味のない電話に律儀に出るのも、全部スイッチを見過ごさないための志摩なりの努力。口酸っぱくルールの中でやることを説く(そして自らにそれを課している)のも、香坂の死の間接的な原因となった「己の思う正義の為にルールを逸脱した行為に走る」ことをさせないため。
伊吹は、そうして志摩が自分を踏み外させないように隣を走っていたこととその理由を今回の件で知った。そして知った上で志摩に掛けた言葉が「俺の生命線は長い」だった。……天才か?
これは言うまでもなく2話の「お前は長生きしろよ」に対するアンサーであるが、伊吹はその言葉の本質が「香坂みたいに早死にするなよ」であることを時間差で理解した。だから「俺はそう簡単に死んだりしねーよ」と言うのだが、それをこの言葉でこのタイミングで放つのが本当に凄い。しかもちゃんと説得力がある。1話から通して、車が横転しても無傷、車にはねられてもいってえ~だけで無事、縄跳びに引っかかってすっ転がっても無事、撃たれても避ける、階段から足を滑らせても踏みとどまる、等、志摩が実際に目撃してはいないものも含めて我々は伊吹のザ・フィクション的な無傷っぷりを目撃しており、「そう簡単に死んだりしねーよ」に対する信頼度はカンスト。「俺の生命線は長い」の前の「ま、安心しろ」も、「俺の〜」を聴いて志摩が安心できると思ってるから出てくるわけで、そりゃ志摩もあんな顔になるわけで。
人はそう簡単に救えないし救われない。この先もウイスキーは飲めない。起きてしまったことは取り返しがつかないし変えられないけど、あの夜香坂がどう「生きた」のか知ったことで志摩のこれからの生き方が変わったことは確か。それを知るきっかけをもたらしたのは「相棒」の伊吹。そういう意味で6話は大きなターニングポイントであり、伊吹と志摩の心的な距離が変化する回だった。志摩はお前ごときの捜査能力、と煽り半分見くびり半分だった認識も改めたことだろう。
そして、伊吹が口にする「相棒」の質も6話を境に全く別モノに変化する。6話中では伊吹の「俺は404、お前の『相棒』だ」と志摩の「それもあるけど……『相棒』だから」の重みの差に眩暈がしそうになるが、8話の伊吹の「どうも〜機捜の伊吹です、志摩の『相棒』の」はどうだ。これまで乱発していた「相棒」とは込められた気持ちが違うように聴こえる。

そんな6話を経ての7話に関しては、フォロワーの「一回寝た?みたいな距離感」という表現が言い得て妙で、志摩はどこか憑き物が落ちたようなすっきりした感じがある。初対面で他人も自分も信用しないと言い放った志摩が、初めて自分から伊吹の意見を引き出しに行った。それのみならず「それニャ!」と伊吹のノリに乗るまでいくのだからガードゆるゆるになるの早……と口が開いた。大熊の不幸は10年間誰にも見つからなかったこと、と言った伊吹は10年目にして志摩に見つけてもらった人。これもまたスイッチ。

そして問題の8話である(問題言うな)。
主人公二人をベクトル違いの「間に合わなかった」人たちにして今度は間に合うようにと渇望させよう、と考えた野木さんは鬼か。志摩は自分にできることがいくらでもあったのにやらなかった、伊吹は自分にできることが何ひとつなかったという苦しみを抱えて生きる。5話でガマさんと飲み屋で会ってたのが6月上旬、堀内を殺したのがセミの鳴く頃、遺体発見から逮捕までが9月だ。まだあの時は……と考えると本当につらいものがある。
腐ってたという伊吹が今の伊吹になるまでのプロセスは恐らく【誰も俺を信じてくれない→俺も誰も信じない→ガマさんだけが信じてくれた→ガマさんみたいな刑事(俺みたいな腐って誰も信じようとしないような奴を真っすぐ走らせてやる人)に俺もなる→誰からも信じてもらえないような奴を俺は信じてやる→大抵のことは信じるようにしている→お前は人を信じすぎる】といった感じで、ガマさんの存在によって伊吹は伊吹になった。そのガマさんが刑事として背負ったものを全て捨てて人殺しに手を染めたというのは、伊吹には耐え難い喪失であり、手酷い裏切りであり、自身の背骨を引っこ抜かれるのに等しいような出来事ではないだろうか。「何があってもあなたは人を殺しちゃいけなかった」という志摩の言葉には、あのグレートデカのガマさんだって大事な人を失ったら刑事でいるより復讐を選ぶのだ、と伊吹が認識してしまったことに対する危惧が少なからず含まれている気がして。あの人ならこういう時どうするだろうか、と信頼・信用している人を当てはめて考えるのはひとつの指標として有効だが、大事なものを傷つけられた時に伊吹が最初に代入するのはあのガマさんだと考えるとまずいなんてものではない。実際、その後伊吹は「刑事を捨てても俺は許さない」と恩師の言葉を一度のみならず引用しており、かつてそうだったという「悪い奴はぶっ殺しちゃえばいい」という倫理水準の方へ戻りかけてないか?という危うさを感じさせる。伊吹の軸足は今どこに。
とはいえ、ガマさんを逮捕した日の夜の屋上で、折れそうな(もしくはもう折れてしまったかもしれない)心で志摩の手を取った伊吹は、まだ絶望の淵には飲み込まれていないと思う。完全に閉じてしまった手は掴めない、と結ばれた大熊の人生、そしてガマさん。でも伊吹の手はまだ閉じていない。それは志摩や4機捜の存在が、ガマさんとはまた違う部分で伊吹を支え始めていたからだろう。志摩が伊吹に投げた「俺ひとりで行かせるつもりか?」は6話で伊吹が言った「刑事辞めたりしないよな?」に対応していて、志摩の手を掴んだ伊吹は刑事のままでいる方を選んだ。ずっと放心したような表情だったのが、志摩の「行くぞ、相棒」で魂が戻ってきたように瞳が揺らぎだす。伊吹が志摩に「落ちた」瞬間を敢えてあげるとすればここではないかという気はするが、落ちたというよりは縋ったというか、この状況で志摩以外に心を預けられる人が伊吹にはいないという感じが近いかもしれない。
一方で志摩の方は、伊吹をすくい上げたと同時に、志摩自身もまた伊吹にすくい上げられたのではないか、と思わされる構図で。「行くぞ、相棒」は2話で一度は結構ですした「俺たちいい相棒になれそうじゃん?」のアンサーで、傷心の伊吹に「俺と一緒に走るぞ」と言っている。そして伊吹に差し出した右手は、あの日の香坂に差し出したくても二度と叶わない右手でもあって。繰り返し夢に見る幻を少なからず目の前の光景に重ね合わせて、今度こそはと強い思いを抱きながら手を伸ばした。そして伊吹は「俺の生命線は長い」と志摩をすくい上げた右手でその手を掴んだ。感電が過ぎる。しかも手が重なって先に掴むのは志摩の方という……
変な言い方をするが、志摩的にはあの日は間に合わなかったが今日は間に合った、という体験が伊吹を通してできたことになり、伊吹という相棒と「間に合う」という事象の紐付けが強化されたのではないかと思う。伊吹自身は「間に合わなかった」けれど、志摩にとっては「間に合った」のがこの8話。伊吹の側でも「一人では間に合わなかったけど二人でなら間に合う」を加速させる要素になったのでは、と解釈した。

もうひとつ志摩に関して思うのは、志摩は自分には伊吹を正しいまま走らせる義務がある、とうっすら考えだしているのではないかということ。
最後にガマさんから自供を引き出したのは伊吹だけど、そこに至るまでの道を整備して目の前まで連れていくというお膳立てをしたのは志摩。お前が言うところの「勘」にはある程度の根拠があり信憑性が認められます、と本人の前で能力を評価し、だから本当はお前もわかってるんだろ?いつまで気づかないふりするつもりだ?と、客観的事実を並べて逃げ場を潰しながら詰めていく。淡々と喋る志摩に「全部志摩の想像!!」と怒鳴る伊吹は、そう叫びながらも志摩が根拠のないことを言わない人間だとよく知っているはずで、激昂して話を遮ったこと自体がひとつの答えになってしまっている。志摩はガマさんが伊吹の恩人だと知っていても容赦しない。というより、身内だからと忖度するようなことは刑事に悖る行為であり、伊吹の恩人で元警察官なら尚更正しく法に則って裁かれるべきだと考えていそうな人だ。そして最終的に刑事を引き連れてガマさんの家を訪問することを承諾した伊吹もまた、刑事としての仕事を全うした。2話で犯人隠秘についてのやり取りがあったが、罪を犯した人をかばうという話はそう珍しくもないことで、伊吹だって絶対にそうならないとは言い切れなかった。志摩は酒とツマミを手土産に、ガマさんが犯人だと認めたがらない伊吹を落としにかかりながら、併せてお前は刑事でいろよとこちら側に縫いとめていたのではないだろうか。
志摩はガマさんの言葉を伊吹に伝えられるか、というのはこれだけで別のテーマとして議論に発展しそうだが、きっとガマさんは志摩をもうゴム底のない靴で走る奴だとは思っておらず、自分という拠り所を無くす教え子を支えてくれとやや身勝手な願いと共に伊吹を託した。志摩はそれを理解しつつ、恩師に引導を渡すよう伊吹に言ったのは自分であるという自覚と相棒としての思いから、伊吹が正しいまま走れるよう自分が隣を走らねばという気概が増したような印象を受けた。元々志摩は香坂の件もあって伊吹が踏み外さないようずっと手綱を握っている感じではあったが、「自分がそうしたい」だったのが今回の件で「自分がそうせねば」にスライドしつつあるのでは……と。
無実でいてほしかった相手に自分でかけろと志摩に手錠を渡された2話の伊吹。「相手がどんなにクズでもムカついても殺した方が負けだ」という言葉がブーメランで刺さる厳しいリフレイン。

ようやく8話かけて「間に合わなかったという傷」と「心を預けられる相棒」という要素が双方に備わり、ここから「こいつと一緒に走ったら間に合う」という確信への加速が始まる。

助けた数より助けられない数の方が多いのかも、とこぼす伊吹に、初めて勤務初日に抱いた「予感」の話をする志摩。順序を入れ替えてかなり序盤に語ってしまったが、伊吹相手にはこのタイミングで炸裂させるのが一番効果的で、なんてものを隠し持っていたんだと唸るほかない。もし次間に合わなければ折れてしまう。そんなギリギリの精神状態で「伊吹と一緒に走ったら助けられなかった人の分まで誰かを助けられるかもしれないと俺は初日に思いました」という言葉をもらった伊吹は、自分一人で間に合わなかったことから、志摩と二人で間に合わせることへ目を向けられるようになった。繰り返す「間に合う」という言葉が、自分たちに言い聞かせるように、まるで言霊に懸けるように、足元をしっかりと踏み固めるように、過去を乗り越えるように徐々に力強く熱がこもっていくのに、次こそはという二人の強い気持ちが感じられる。と同時に、伊吹の「間に合うかな」という問いを「間に合う」と断定形で拾う志摩に僅かに違和感を覚えるのも確かで。たわいもない色話から香坂が死んだ晩の話に至るまで「証拠がないことを言うな」と言うのが志摩で、こんな風に即座に言い切られると少し調子が狂う。もちろん不安に駆られている人には100%大丈夫だと断言する方が安心感を与えられるのだろうが、志摩は不確定なものを不確定なものとして扱うことに誠実さを見出しているタイプの人間じゃなかったか、と個人的には考えているので、もしかしたらこの時点でもう志摩の思考には「伊吹と一緒なら間に合う」というバイアスが働き始めているのかもしれない。

ところで志摩の「伊吹は間に合わなかった」という発言を皮切りに二人の間で使われる合言葉のようになったこの間に合う/間に合わないという言い方、志摩自身は4話で桔梗がぼやいてしまった「私たちはいつも間に合わない」から引っ張ってきてるんじゃないかと勝手に推測している(あの場にこっそり伊吹もいたので)。青池透子と共に初めてフォーカスされたハムちゃんに、必ずあなたを自由にすると誓っていた桔梗。青池透子には間に合わなかったがハムちゃんはどうか、という点で4話と9話は対になるエピソードだなと。

話を戻してエトリ逮捕へ動き出した警察。ハムちゃんたちに何かあったら俺は許さないと言う伊吹に「俺も許さない」と返す志摩、伊吹の言う「許さない」はガマさんの言葉の引用であり要するに「殺す」という意味だとわかっていてその返しをするのにヒヤリとするが、たぶん本当に大事なのはその後の「そうなる前にエトリは必ず捕まえる」の方だ。「俺"も"許さない」と伊吹の気持ちに寄り添いながら、俺が一緒に走るからお前を正しい道から踏み外させはしない、と言っている。機捜を「誰かが最悪の事態になる前に止められる超いい仕事」と表現した伊吹に心を動かされた志摩が一番止めたい人物はもう言うまでもない。そして志摩の「俺も許さない」も本気だったと後からわからせるのが最終話のバッドトリップという構造。震える……

もう取りこぼしたくないという強い気持ちと裏腹についにエトリの手に落ちてしまうハムちゃん。知らせを聴いて一瞬で沸騰して弾丸のように飛び出そうとする伊吹を押さえながら志摩が放つのが「間に合わせるぞ」で「ハムちゃん助けるぞ」ではないところに、この二人がもっとデカいものに対峙してることが示唆される。
突発的に発生したハムちゃん奪還作戦を含むこの一連の捜査は、警察にとっては存在しないとさえ思われたエトリを捕まえるチャンス、九重(401)にとっては悪い方へスイッチさせてしまった成川を正しい道へ戻せるかどうかの分岐点、桔梗とハムちゃんにとっては「女だから」という理不尽に共に抗い続けた2年間に決着がつくかどうかの最終局面、そして404にとってはひとりでは間に合わなかった過去の自分たちとの間接的な雪辱戦であり救済できるかの瀬戸際であり刑事でいられるかどうかの土壇場でありケーキ入刀である。これで最終回じゃないの、本当になんなんだ?
もちろんハムちゃん(と成川)を無事に助け出したいという気持ちは疑いようもないが、それ以上にこの二人は「間に合う」ことに固執しているように見えた。恩師を止められなかったという大きな傷を負った直後にこんな大事な人の生死がかかった瞬間に立ち会わされたらそうなるのは無理からぬことで、伊吹も志摩も相当必死だったことが痛いほどわかる。小さい「間に合った」を積み重ねて傷を塞いでいくという道もあったはずだがそうは問屋が卸さないのがテレビドラマの制約。当初の通り14話の構成だったらこの辺りがどうなっていたのかは結構気になるところ。
ハムちゃんの意識を確かめて叫んだ「間に合った!」は、死ぬ前に救出が間に合ったという文字通りの意味でもあり、今度こそ大事な人を取りこぼさずに済んだという安堵と勝利の雄たけびみたいなものでもあった。ここでも「間に合った!」と叫ぶのは志摩だし思わず抱き寄せるのも志摩で、お前本当にそういうところ……となるが、それはこの「間に合った」はハムちゃんと伊吹の二人分だから、と解釈することにしよう。
こうしてぎりぎりの状態でなんとか間に合ったことは強烈な成功体験として二人に刻まれることになった。こいつと一緒に走ったら間に合うかもしれない、という志摩が1話で抱いた予感は確信へと変化した。自身を「有言実行の藍ちゃん」と表現した伊吹と同様に、間に合う、間に合わせるぞと言って伊吹を引っ張り上げ実際その通りになった相棒もまた有言実行の志摩ちゃんで、やはり志摩の言葉は信ずるに足るものだ、と再認識したようにも思う。

9話は志摩と伊吹のコンビネーションも気持ちよく決まっていて、志摩の頭脳と精神力、伊吹の足と耳という互いの武器を総動員してハムちゃんを手繰り寄せたのはバディものとしては最高の展開。続く10話も最後の方までは本当に良い感じで、ボイスレコーダーを回したり瞬時に鎌をかけるカンペ出したりする志摩は機転が利いていたし、通話の先の久住から離れた位置の出前太郎の声を聴き取る伊吹の聴力は凄まじかった。それで居場所を掴んだのだから、普通のドラマだったらもう久住捕まってる。しかしMIU404は普通のドラマではないのでメケメケフェレットは捕まらない。二人の関係に亀裂が入る分岐点がやってくる。
病院か久住か、という二択は今か未来かという選択で、久住がもたらす影響の規模と範囲を考えれば病院よりも久住を取るべきだ、と本来ならば考えるのが志摩の役割だった。伊吹は絶対今助けを求めている人を見過ごせないと言う人だから。しかし現実の志摩は逡巡を一切吹っ切った顔で伊吹の判断に乗っかった。これを見た時、完全に「伊吹となら取りこぼさない」というバイアスがかかった状態だなと思ってしまった。二人を「いい相棒」にしていたものがここに来て仇となるという展開、実にえげつない。勝って兜の緒を締めよ、と無責任な外野は言いたくなるが、伊吹の意見にも理はあるので判断ミスと一蹴するのはあんまりだろう。伊吹はきっと志摩が久住に向けて言った「人間がやったことの証拠は必ず残る」という言葉を踏まえて、生きてりゃ辿れる、またチャンスがやってくると志摩に呼びかけたのだ。これまで彼の言葉にたくさん揺さぶられてきた志摩が、究極の選択を突きつけられた状態であんな力強い相棒の言葉を聴かされたらそちら側にもいくし「了解、相棒」なんて言ってしまうのも大いにわかる。わかるだけに、それを後悔する次週のダメージはひとしおである。
少し時間を遡って伊吹に不安を覚えるのが、ゆたかとサシで話してるシーンの「ルールは守んなきゃいけないっていつも志摩が言ってる」発言。確かに志摩はいつもそう言うしゆたかにルールを守ることを説くのも何ら間違ってはいないが、志摩がそう言うからそう思ってるだけで、言わなくなったら(もしくはいなくなったら)伊吹は「ルールなんてどーでも良くない?」という状態に戻りそうな危うさを感じた。伊吹の根っこは実は今でも「悪い奴はぶっ殺しちゃえばいい」で、志摩やガマさんによって刑事の倫理観という名の塗装がされてる(されてた)だけなのだろうか。伊吹を正しいまま走らせてやりたい志摩のガイドも永遠ではなく、やり方を知らない伊吹がそれを身につけるまでの補助輪的なものなので伊吹自身がルールの必要性を理解しないと意味がない、ということをいまいちわかっていなさそうな感じが怖い。

相棒に寄せていた盲目的な信頼が既にぶっ壊された志摩とこれからぶっ壊される伊吹、崩壊と再構築の最終話。
404的に9話のハムちゃん救出が強烈な成功体験だとするなら、10話でフェイクに騙され久住を取り逃がしたことは痛烈な失敗体験とでも言うべきだろうか。あの時は騙されてるなんてわかんなかったからもう仕方ないじゃん?と言える伊吹は本当に今を生きてる奴で、まだあの晩の出来事を失敗として悔いていないのに対して、久住と直接やり取りを交わしていながらフェイクだと見抜けなかったことに「俺としたことが」という苛立ちと後悔が止まない志摩。あの時仮に久住を追っていたとしてもフェイクが作動した以上は搬送が遅れることは必至だった(久住を捕らえて止めさせるのと糸巻がフェイクだと見抜くのとどちらが早いか考えても恐らく後者)ので、病院を選んで後悔してるのは、フェイクが見破れず陣馬さんがこんな状態になるんだったらせめて久住のひとつでも逮捕してれば少しはマシだったのに、的な感情なのかもしれない。「昔の俺なら迷わず久住を追ってた」って平和ボケして感の鈍った殺し屋みたいなセリフだな……とふざけた感想は置いておいて、俺が悪いの?と噛みつく伊吹にお前は関係ない、他人に判断を任せた俺のミスだ、と言う志摩よ。それはどう考えても伊吹は自分のせいだと言われたように取るでしょうよ。伊吹と組んで変わった自分を否定するということは、間接的に伊吹を否定したことになるわけで。意識としては「自分のせい」でも相手からすれば「お前を信じた俺が馬鹿だった」と言われたようなもの。それは伊吹も志摩?知らねーになってしまう。
この車中の一連のやり取りは志摩にしては話の筋がスマートじゃなく、精神状態の悪さが推察される。というのも、この志摩らしからぬ喋り方は6話の香坂マンションでの回想シーンと重なるものがあるからだ。遺体を発見して陣馬さんと屋上に行った志摩は、質問に対して噛み合わない返事をしたり"今日"の話をしてるのに昨夜とか以前とか時間軸のずれた要領を得ない物言いをする。普段ではあり得ないその返答に彼の動揺の激しさが窺えたが、久住を取り逃しかつての相棒が死にかけている今のこの状況も、いつもの冷静さを欠くには十分なのだろうと思う。九重が糸巻に言った「自分が相棒だったら結果はもう少し良い方に違っていたと思う」は今の志摩にとっては「伊吹が相棒でなければ〜」であり、前話まで上手くいっていた分の揺り戻しがキツい。

志摩にも否定されガマさんにも面会拒否された伊吹は「刑事を捨てても俺は許さない」と繰り返す。拘置所を出たところで呟く方は脚本のト書きに「無意識に」とある。信じていた、自分を真っ直ぐ走らせてくれていた二人に切られた伊吹は、「悪い奴はぶっ殺しちゃえばいい」に「刑事を捨てても俺は許さない」を足した最悪のパターンに足を突っ込みつつあるようだ。
一方で志摩の方は伊吹のあの言葉を思い返しながら一人RECの元へ。伊吹は志摩に見限られたように感じているが志摩は本当に自分に原因があると思っていて、「こいつと一緒なら間に合う」バイアスが解けたいま彼が考えているのは「伊吹が正しいまま走れるようにすること」だけ。そのためには失敗した原因である自分からも正しいままでいられなくなる原因となるであろう久住からも切り離すことが必要だと思って動き出している。もうとっくの昔になかったことになってただろう伊吹の適性判断の話まで持ち出して。「進退は自分で決めろ」とかつての相棒に言った志摩が「任されてたんだよお前の進退を」と伊吹に言うのが、自分で進退を決めさせた相棒は死んでしまい、だからこそ己に決める権利がある相棒のことは死なせまい人殺しもさせまい、という意思が迸っているようで胃が痛い。大切だからこそ傷つけて突き放すような方法でしか距離を取れないところに志摩の不器用さを感じる。伊吹にぶん殴られてもやり返さないのはコミュニケーションを取る気がない=全部一人でやるともう決めているからで、志摩が暴走しそうだという伊吹の勘は悲しいことにど真ん中を貫いている。ちなみに、伊吹が志摩を殴ったのは進退を握っていたことを隠していたからではなく(恐らく1話の様子からしてそれはもう察している)、お前を置いて独断専行します宣言をもっともらしい理屈をつけて提示されたからだと考えている。もしかしたら盗聴器を仕掛けるために一発芝居を打つつもりではあったのかもしれないが、あの拳に込められた本気の度合いはそう低くはないように見えたので演技というよりは素の怒りの発露だったのだろう。

この文章では「志摩は伊吹に正しいままでいてほしいと思っている」という設定をベースにしてこんなに長々と語っているわけだが、実は本編で明言されるのは最終話の九重とのシーンが初だ。それ本人に直接言ってやれよ案件すぎる本当に。
伊吹には正しいままでいてほしいという願いはもはや身勝手な祈りでエゴだ。でも、そうである伊吹なら刑事としてきっとたくさんの人を救えるだろうという部分に帰着する、志摩個人を救うための願いではない(伊吹がそういう刑事でいることに志摩が救われるのならそういうことにもなるのだろうが)。
現時点で志摩は刑事を捨ててもいいと思っている。ただ、「伊吹を正しいままでいさせられるなら自分はルールを逸脱できる」というのは半分くらいで、もう半分は「疲れたからもう辞めたい」だと思う。オリンピックに反対していたおじさんの「もう疲れちゃった」はまさに志摩自身の状態を的確に表した言葉で、RECに零した警察官を辞めたいのかもしれない、もう疲れたという言葉はRECを落とすための演技じゃなくて本音だったんだろうなと。志摩のようにルールを守ることに重きを置いている人間ほど、正攻法では太刀打ちできない久住への苛立ちや無力感はきっと強い。おたくらが大事にしてきたもんいっこも効かへんけど?と笑いながらひらひらと罪を重ねる久住に警察官としての矜持を失わずにいられるかという試練の時のようにも感じられる。九重の体当たりの言葉に動かされてなんとか二択の分岐まで戻れて本当に良かったぞ志摩……。警察官として動く=伊吹と二人でやる or 一人でやる=刑事を辞める。「ルールに反することはしない、単独行動も絶対禁止」と釘を刺されてそれかいという感じだが、結果的に盗聴器に気がついたので九重様様である。
さてその盗聴器を仕掛けた伊吹の方は、一番大事なところを聴く前にイヤホン剥ぎ取って立ち去る最高の間の悪さで最低の最後のスイッチが入ってしまう。伊吹の言う「志摩の真似」は恐らく1話を指していて、お前のこと信用ならんから仕掛けといたわというあの時の仕返しみたいなもの。相棒なんて一時的なもので解散したら終わり、というのは6話の桔梗の言葉の引用だろうか。もうどうでもいい、互いに自由にやろうぜと言う伊吹は完全に自棄になっていて志摩の言葉も届かない。共依存どころか対等な信頼関係までバキバキになってしまった404。そして迎える運命のバットリ。

志摩も伊吹も二人してあの幻覚を「最悪な夢をみた」と表現した。二人がみたものは一人で突っ走ったことで払わされた可能性のある代償の形、もしかしたらあり得たかもしれない未来のひとつだったのだと思う。本心ではあるけれど刑事でいる以上は叶えてはならないと自覚のあるものが叶ってしまう、そしてそれと同時に大事なものを失ってしまう世界。一度その「最悪」を目の当たりにして目覚めた二人は、自分たちがまだ「最悪の事態になる前」の地点に立っていることに気がつく。一人で突っ走った先の地獄を見た後にまだ「間に合う」と悟った二人は何を選択するか。結論は自ずとひとつ、また相棒と一緒に走ることだ。
額をぶつけ合って言う「目ェ覚めたか」は「夢から覚醒したか」と「一人で走るのは馬鹿だったと気づいたか」のダブルミーニングであると共に、対話を拒否するように伊吹の一方的な拳で終わったあのやり取りのリベンジ。我々が言葉であれこれ語りたがるような難しい理屈はあの時の二人の間にはなく、ただ最悪な夢を見て目が覚めたらちゃんと相棒が目の前にいた。ただそれだけでその時は十分だった。その上陣馬さんが無事ならもう言うことはない。また二人で全力で走り出すのみだ。屋形船に久住を見つけた時の「行ってくる!」「行ってこい!」の力強さと清々しさといったら涙が出る。

とはいえバットリでみた夢をきっかけに二人の意識が変化したのも事実。久住にかけた言葉はあの夢を経て彼らが出したひとつのアンサーだ。
では二人がみたものはそれぞれ何が最悪だったのか。※ここでは前半が志摩のみた方、後半が伊吹がみた方と解釈して話を進める。

志摩にとって最悪だったのは、死んで楽になりたいと望んだことと確実に伊吹に久住を殺させてしまう状況に陥ったことの2点。「ブーメランを食らいながら清く正しい刑事で居続ける」は、アンナチュラルの中堂さんの言う「許されるように生きる」に相当する香坂への贖罪でもあり、伊吹の「刑事辞めたりしないよな?」に対する契りでもあり、警察官としての矜持でもあった。それをもう手放して楽になりたいから殺してくれて構わないと夢の中の志摩は言う。しかも、自分が死んだら伊吹は久住を確実に殺すと認識した上で。あれだけ伊吹には正しいままでいてほしい、人殺しなどしてくれるなと願った自分自身が伊吹に引き金を引かせる。相棒の死がどれだけの喪失をもたらすのか知っている自分が、相棒を相棒を亡くした男にする。「それでええの?伊吹が不幸になるんとちゃう?」は久住の顔と声を借りた自分自身の言葉なので、志摩は自分の行動で伊吹が不幸になるとわかっている。わかった上で、本当の俺は自分勝手なんだと自分を撃たせた。死んで楽になりたい、が本心だとしても、そのために伊吹に道を踏み外させることを良しとした夢の中の自分は志摩にとっては紛れもなく「最悪」だったのではないかと思う。伊吹が殺されそうになり拳銃を抜いて安全装置まで外したことに関しては、個人的には「最悪」とは考えておらず、9話で伊吹に言った「安心しろ、俺も許さない」が「俺も殺す」という意味で言っていたのだということの補強として捉えた。

対する伊吹にとって最悪だったのは、自分のせいで志摩が死んだことと久住を殺してクズに戻ることの2点。志摩の言葉を無視して一人で突っ走ったせいで志摩が死ぬ羽目になる、というのは説明するまでもなく「最悪」。後者の方は元々そのつもりで行ったんじゃないのかと言えばそうだが少し事情が違う。伊吹の夢の中の伊吹の思う志摩は、自分が撃たれて死にそうになっている時でも伊吹に「殺すな」と言うのだ(中の人曰く「この局面でもそう言って伊吹を止めようとする志摩が眩しく見えた」そう)。そんな、これまで自分を真っ直ぐ走らせてくれた相棒の最期の言葉を振り払ってでも伊吹は久住を殺してしまう。刑事であることを捨ててクズに戻ってしまう。自分のせいで相棒が死ぬ、そしてその相棒がずっと心を砕いてきたことも今際の願いも全部自分自身が無駄にしてしまう。それが伊吹にとっての「最悪」なのではないか。

その「最悪」を経て、伊吹は「許さないから殺してやんねえ」、志摩は「生きて、俺たちとここで苦しめ」という答えを出した。現実世界の彼らは夢でみた「最悪」の逆を選んだ。私的制裁ではなく法というルールの中で裁く、クズには戻らず刑事のままでいる、自分はもうガマさんとは同じにならないという宣言。死ぬという楽に逃げない、ブーメランを食らいながらウイスキーは飲めないまま刑事を続けるという宣言。「殺さない」ではなく「殺してやらない」なのは志摩の「そんな楽さしてたまるか」をわかっていたかのような言い方で、それを受けた志摩は伊吹の言葉に頷いてから口を開いた。違うものをみながらも二人が選んだものは繋がっていた。逆を選べたのはいま隣に相棒がいるからで、二人の宣言は恐らく"相棒が生きている"という条件付きのものではある。でも、伊吹が生きていれば志摩は死なないし、志摩が生きていれば伊吹は殺さない。それは相棒ありきというよりは、「自分が刑事としてちゃんと生きることが相棒を刑事として生かす」という縛りとして機能するような関係だと思う。

とは言ってみたものの、実際あの時点では解決していないことはたくさんあり、それは外野の我々が知らない例えば空白の1ヶ月だったり2020年7月までの何ヶ月かの中で少しずつ解決したりしなかったりしてるんだろうなと。最後の「間違えてもここからだ」「そゆこと〜」は視聴者にとっては屋形船のシーンから3分後の出来事だが、彼らにとっては辿り着くのに数ヶ月かかった答えであって、その間は本当にいろいろあったのだろうと考えるしかない領域である。
共依存からの信頼関係の崩壊を経てもう一度刑事として生きるということを選んだ二人は、最後に「こいつと一緒に走っても間に合わないこともあるかもしれないが、それでもまたやり直せばいい」というひとつの答えを出した。それは「共依存」を抜け出した先の「共存」という生き方なのではないかと思う。

この文章は、企画「#MIU4o4自由研究会」のテーマ「404の関係が『共依存』かどうか、それは11話の前後で変化したのか」に寄稿した文章を加筆・修正したものです。