欠けよ星たち躍れや心

月が欠けてる!!!!とテンションぶち上がりになって家までの道を歩いていると、スマホ片手に立ち止まって空を見上げている人にたくさん遭遇した。毎度思うがスマホで月を撮るのって難しくないか?天体ショーの目撃者になるたび一応シャッターを切ってみるものの納得できた試しが一度もない。

玄関に鞄を放置してまた外に戻り、月が本影に飲み込まれるまで目を凝らしたり双眼鏡を覗いたりTwitterを眺めたりしながら冷えた外気に耐えていた。そういえば今日は集合住宅での子どもの声に関してあんな意見やこんな意見がTwitter上を飛び交っていたが、こんな日に子どものはしゃぐ声が共用廊下から漏れ聞こえるのは悪くないことだよな、と思う。大のおとなだってこんなに大騒ぎしているのだ。月があんなことになってたらそりゃ面白いよな?何歳になってもわくわくしような?とよくわからない立場になりながら赤銅色に染まっていく月を見つめた。

私は割とこういう宇宙規模のイベントを楽しみにしていて空を眺めてはルンルン気分に浸ることが多いのだが、いつもいつも10年くらい前に見た金環日食のことを思い出してしまう。

それは当時高校生、朝の学校、Newtonの付録の観測用グラスを携えてのことだった。確か中間テストの初日だか2日目で、早く登校して勉強してから拝もうと浮かれていたもののまあ当然身が入るわけもなく、もういいかと諦めて校舎の端の太陽が見える窓の方へと移動すると、同じことを考えている人間が私の他に2人いた。推定同学年の顔も名前も知らん男子と地理の先生。先生と日食ですねそうですねみたいな会話をしながら、一応テストあるのに勉強サボって太陽見に来てんの若干気まずいな、と思ったか口にしたかした。すると先生は「勉強とかテストなんかどうでもいいんですよ。こういうものを見る方がずっと大事ですから」といったようなことを仰ってハハハと笑った。
いやサイコー……と私は思った。その先生はちょっと変わっていて、教科書を用いるという概念がなく「私の授業では寝ようが携帯触ろうが内職しようがごはん食べようが自由です。お好きに過ごしてください。ハハハ」というスタンスの、保護者的には大丈夫かそれみたいな人だったが、授業授業していない感じが新鮮で好きだった。だから、教師という立場でそういうこと言っちゃうのも先生らしかったし、子ども相手にそういうことを言ってくれる大人がいるということが嬉しかったのを今でもよく覚えていて、時々思い出す。珍しい金環日食を見たことよりも、先生の言葉の方がずっと頭に残っている。宇宙の神秘的な光景を目の当たりにするたびに蘇る、大事な記憶だ。

こんなことをつらつらと書いている間に月は地球の影を抜けて平常通りの運行に戻ってしまった。ぶっちゃけ欠け切ったところがピークでその後はもうなんでもよかったりする。寒がりなので一旦家に引っ込んでしまったらもう外に出る気がなくなって、月食鑑賞会は終了した。お疲れさまでした。

実はさっきモブみたいな書き方をした初対面男子のことも実は結構記憶に残っていて、何故なら目を細めて窓の外を見ていた彼が、持ってたシス単からおもむろに赤シートを抜いて日食グラスよろしく目の前に掲げだしたからである。バカ?????
もちろんそんなことを言う間柄ではなかったので黙っていたし、その後の高校生活においてもなんの伏線でもなかった。ただその光景も不思議と忘れられず、なんかいい朝だったな、と懐かしい思いに浸ることに寄与してくれている。

影技術がなさすぎる