翳りのない少年たちの季節は過ぎ去って

人によって障害物の数は違う。生まれ落ちる環境は誰にも選べない。自分の意思とは無関係に与えられたものに削られ、あるいは磨かれながら子どもは大人の形になっていく。高校生というのは難儀な生き物で、まだ大人とは呼べないが子ども扱いされるとカチンとくるような、やりたいこととできることのギャップが一番大きいような、いっぱしの心持ちと現実に動かせる手足の未熟さの狭間でじたばたともがく年の頃だったりする。人間はスイッチひとつでパッと子どもから大人になれるわけではない。自分の器と中身が一致しない混沌の季節があって、それが過ぎ去った先に自分は大人だと言える季節がやってくるのだと思う。

伊吹藍と九重世人は、青春を奪われた高校生たちに向き合う警察官の中である意味最も彼らに近く、それでいて対極のスタンスを持つ人物として描かれた。「俺なみのバカ」と呼びかつて道を外れかけた自分を重ね合わせるように振る舞う伊吹と、彼ら同様に子どもと大人の間に立ちながら、犯罪者と呼び間違っても自分と同じだと思われたくない九重。二人の放つ言葉に天と地ほどの隔たりがあるのは、それぞれのバックボーン自体が大きく違うからであろう。

伊吹は1話から3話まで、毎回容疑者の心理を代弁するような言葉を口にする。そこにポンと置かれていたものをただ拾い上げただけ、という軽さで出てくる確証に満ちたセリフには強い当事者性が感じられる。負けたくないから相手をブイブイ煽ってオラついて、着せられた濡れ衣を剥ぎ取るために逃げて、身体の内側に溜まった熱を解き放つために走って。そういった経験が伊吹にはあったのだろうと思わずにはいられない。桔梗の言葉に感電した伊吹の中の少年は、まさに教育を受ける機会を得られずこぼれ落ちていた子どもだった。

そうしてあっさり成川たちの行動原理を理解する伊吹とは反対に、九重は走りたいなら場所はいくらでもあるし一人で走ればいいと不理解を示す。ここで押さえておきたいのは、成川たちはただ単に走りたかったわけではない、ということ。彼らがしたかったのは、前の大会でバトンミスで勝利を逃したリレーのリベンジ、そして連帯責任と一括りにしてクスリとは無関係の自分たちから部活を取り上げた大人への抵抗だ。それには"本番"という場が必要で、一人ではまるで意味がない。「このメンバー」で「リレー」で「大人を翻弄して」勝つことにこそ彼らが走る意味がある。ただ走りたいだけでもなく、ただ大人たちに一矢報いたいわけでもない。

その声なき声を汲んで放たれた伊吹の「走りたいんだよ」を、九重は額面通りにしか受け取れなかった。それは九重の人格に問題があるのではなく、彼が育った環境に伊吹や成川たちのような人間がいなかったからだと言える。作中の言葉を借りるなら九重は「世間知らず」なのだ。
彼は教えられたことをすぐに吸収して次に活かそうとするし、足りない知識は仕入れてくるし、時には覚えなくて良いようなことまでメモに取る。真面目で努力を怠らない優秀な人だ。ただ、その武器とも呼べる特性は、努力がきちんと報われる環境にいたからこそ身につけられたものでもあると私は思う。生来の能力の高さも手伝って成功体験をずっと重ねてきた九重は、研鑽を積んだ分だけ成果はついてくるものだと考えている節があり(公式HP相関図の人物紹介曰く「今まで何事もうまくこなしてきたという自信から、どこか上から目線になりがち」)、それは裏を返せば現状に満足していない人はその人の努力が不足しているからだという個人の問題、志摩が指摘した自己責任論に収束しやすい。だからバカをやる犯罪者を軽蔑し、「他のことにエネルギーを使うべき」と斬り捨ててしまえる。世の中にはバカをやらずにはいられない、それ以外の生き方がわからない(もしかしたらそれをバカなことだとも思えないくらい切実な)人がいるということを知らずに、また自身もバカをやらずにここまで生きてきた。生きてこられた。それは後に自力で気づく「うんざりするほど恵まれている」ことのひとつであり、「世間知らず」と評した所以だ。無知の刃はきっと鋭い。世の中には自分の想像が及ばないようなものが無数にあると常に頭の片隅に置いておかなければ、いつか誰かを切りつけてしまう。知らないのなら知るしかない。知ろうとする姿勢にもまた努力が必要だが、彼はそれができる人だ、ということは数ヶ月後成川に手錠をかける時に言った「全部聴く」が物語っている。
高校生とは難儀な生き物だと書いたが、身体も立場も大人でありながらどこか自分は大人とは違うと思っていそうな九重には、彼らと近いものを感じる。若さを盾にバカをやる奴に嫌悪を示しつつ、若い人が何も考えていないと思っている大人にもバカだと苛立ちを募らせる。その大人に自身は含まれておらず、かと言って子どもでいるつもりでもない。境界線の曖昧な"若者"と呼ぶのがしっくりくるような不安定な足場に立つ存在として映った。

××知らず、という言い方をなぞるとしたら伊吹の場合は「常識知らず」だろうか。良くも悪くも常識を基準としない振る舞いは、今回は再犯を予見する形で捜査に貢献した。
伊吹は高校生たちに共感はしても肩入れはしない。気持ちはわかるし多めに見てやろう、などということは言わない。むしろしょっぴくことには乗り気だ。警察官として当然の姿だと言われればそうだが伊吹の場合は少し違うところにエンジンがあるように思う(そもそも真っ当な職業倫理という観点を持ち出すと伊吹は少し危うい)。伊吹にとって目の前の高校生たちは昔の自分自身であり、己の軸足は「自分を正しい道に戻してくれたガマさんのような刑事になること」にある。かつて彼にしょっぴかれたことで今ここに立っていると考える伊吹ならば、師匠と同じ選択をするのは必然と言えるだろう。下手な情けは相手のためにはならない。きちんと裁きを受けさせるのは誠実な大人の手の差し伸べ方で、伊吹は誠実な大人だった。揉み消して何もなかったことにするのがあなたたちのためだとお為ごかしの言葉を吐いた校長とは対照的に。

3話『分岐点』は、動機を理解できる大人(伊吹)と理解できない大人(九重)の対比だけでなく、子どもを切り捨てる大人(学校)とすくい上げる大人(警察)の対比を描く構造にもなっている。アンナチュラルに引き続き野木脚本は「あったことをなかったことにする」態度に批判的で、保身に走る大人のカウンターとして配置したのは、身を粉にして職務にあたる警察官たちであった。いたずらだろうがこっちは確認しないわけにはいかない、と冒頭で陣馬が漏らした愚痴は、終盤の毛利の名台詞(と個人的に思っている)「ま、こっちは警察なんで。通報がありゃあ調べもするし助けもしますよ」で形を少し変えて回収される。対象がどんな奴でも向き合う(向き合わざるを得ないとも言える)警察。それを織り込んで彼らを勝負の相手に選んだのかはわからないが、自分たちは人を助けるために動くのだ、と言う大人に受け止められたことは高校生たちにとっては幸運だったのではないかと思う。

MIU404は、アンナチュラルで切り捨てた"犯行の動機"は本当に切り捨てて良かったものなのか?という思いから、加害者の声を拾うことに焦点を当てた作品だと脚本家の野木亜紀子は語っている(※)。犯罪者と呼ばれる人間の気持ちがわかりすぎる伊吹とわからなさすぎる九重、疑う姿勢をベースに敷くことでバイアスを排除しようとする志摩、35年間様々な事件の様々な犯人を見てきた陣馬、10年先の治安を見据えて事件に向き合う桔梗と、ほぼ10歳差4世代で構成された4機捜のメインメンバー。本気を感じる布陣である。また、3話のみならず彼らは「子どもの言うこと」「子どものしたこと」と雑に括って片付けることなく真摯に向き合う大人として描かれた。7話で放たれた「悪い大人もいるけど、ちゃんとした大人もいる」という台詞。そのドがつくほどストレートな言葉は、一人で世の中に絶望しないでほしいという若者へのメッセージであり、日々懸命に社会の中で働いている大人への肯定のようにも感じられる。いつか大人になる子ども、かつて子どもだった大人、その過渡期にいる者。罪を犯した者、そうでない者。どの層に対しても誠実であろうとする作品の姿勢は、私にとってMIU404が好きだと胸を張って言える理由のひとつである。

以上、外野という立場からかなり好き勝手に、とりわけ九重に対して誰様だという目線であれこれ述べてしまったが、この文章は4割がブーメランで5割が自戒だ。自分の見たもの、考えること、感じたことが全てで正しいなんて信じ込まないように、謙虚な人間で在ろうとし続けたいと思う。

※下記インタビュー参照
s.cinemacafe.net